不撓不屈・ボスの自転車人生

不撓不屈・ボスの自転車人生

後閑 信一 後閑 信一 ごかん しんいち 元競輪選手  平成2年4月に65期生としてデビュー。落車による大ケガや数々の困難を不撓不屈の精神で克服。第46回競輪祭、第15回寛仁親王牌、第56回オールスターとG1で3V。面倒見いい親分肌と風貌から〝ボス″と称された。平成30年1月引退。通算成績は2158戦551勝、2着311回、3着255回。

第110回 地元の寛仁親王牌から上昇気運に  2020年9月25日

 そして西暦2000年を迎え、21世紀の前の年になりました。私が子供の頃にイメージしていた21世紀とはかなりのズレがあったのを覚えています。私のイメージでは、とっくにリニアモーターカーは走っていて、車も水素や電気、タイヤもなく空中を浮いている様な世界を想像していました。最低でも今の時代(2020年)が始まっていてもおかしくない位、バブルの時代は夢が先走る程、何事にも豊かでした。2000年?こんな現状でイメージ通りの21世紀は大丈夫なの?と思いながらも「何とか後閑家バブル」の崩壊も食い止め軌道修正しなければ!と毎日、朝から晩まで自転車を乗り込みました。
 しかし、新年が明けても日本選手権・高松宮記念杯と全く結果に現れず、頑張って走るのですがレースの組み立て方、タイミングが悪い方、悪い方へと流れるのです、、。しまいには「おいおい!番組~」と人のせいにまでする始末(笑)。「あんなに練習しているのに何でだ!」と宿舎の窓の隙間から見える夜空を睨んで、グッと歯を食いしばる日々が続いていました。
 そして2000年もあっという間に半年が経ち、賞金も稼げず税金に追われ始める時期になりました。この頃から「胃が痛む」現象が度々あり、医者にいくと「ストレスですね!」と言われる様になってきたのです。ストレス?この俺が?子供の頃、上級生から毎日呼び出されたり、逃げ回ったり、プロデビューしてからも「出る杭は打たれる」先輩方から理不尽な事をされ続けても何ともなかったこの頑丈な「私の胃」が何と!痛いのです。2棟目の家を購入し、相変わらずベンツも2台持ち、アメ車や誘導用の車とバリバリの生活をしていましたが、成績が全くのスランプ状態。この時の家計は収入と支出のバランスが大きく変わってしまい、一番大事な税金が払えそうもありませんでした。でもその時の私の良かった所は「車はダメなら売れば良い、、」「そしてまた頑張って買えば良い、、」私は当時、趣味と実益を兼ねて、いずれは自動車販売などをしようと思っていたので、古物商の許可を取得していました。なので車は自分で極上車を見つけると、その店まで出向いて細かい所までチェック!して業販してくるので、低走行で新車同様の車しか乗っておらず、売却するときも購入時と、さほど変わらない価格で売却できるのです。カスタムをすればする程、当時の外車は付加価値として人気が上がるので、購入した値段より高額で売却出来た事もありました。当時の私は物欲はありましたが、物に対して執着心は無く、1千万円以上のベンツをあっさり売却、税金に充てました。
 そして、たいして調子も変わらないまま地元前橋のG1寛仁親王牌がやってきたのです。やはり地元は俺の庭感覚!恥ずかしい走りは出来ない!そんな思いの中、初日からマーク戦で番組に恵まれたのです。やはり地元!「ありがとう神様!ありがとう番組様!」と心弾みました。練習はしっかりしていましたので、人の後ろに付くと一人だけ電動アシスト付き自転車に乗っているようで余裕でゴール!何だか悪いようで簡単に勝てました!2着・1着・2着で決勝戦進出。神山雄一郎選手をマークした準決勝は本当に痺れました。
 そしていよいよ決勝戦!関東ラインは4車。先頭に太田真一選手―神山雄一郎選手―金子真也選手―後閑信一と私は4番手を回りました。私は普段から前を走る3選手には付かせてもらってお世話になっているので、これは自然な並び!そしてレースはなっなんと、、打鐘で太田真一選手が落車しているではありませんか、、、。当時の太田選手は抜群に強かったので、4番手の私は離れない様にピリピリしていました。離れそうになったらなるべく内側にコースを取り走らないと完全に離れてしまいます。そのスピードの上がる打鐘での出来事!内側にコースを取っていたら、、と思うと運も良かったです。すかさず神山選手が切り替え鋭くホームストレッチからスパート!私は準決勝で神山選手の後ろをマークしていたので「デキ」と「仕掛け」の得意パターンは読めていました。ホームストレッチに入った瞬間に「真也!そこ!」と心で叫びました!案の定、金子選手はマークを外してしまいましたが、私は同県の、しかも高校時代から慕ってこんな私に付き合ってくれている後輩と一緒に地元のG1決勝戦に乗れて嬉しかった思い出があります。
 4日間頑張って賞金を貰ってまず思った事は、、「車売らなきゃ良かった」でした(笑)。でも損は無かったし、税金払えて気持ちもスッキリ!「心機一転」頑張れたのでヨシとしました!そして家に帰ってすぐにしたことは、、娘の百合亜をあぐらをかいてその上に座らせ、いつものお決まりのスタイルでまた次の外車を探しにウィズマン・特選外車情報・ルボラン・ゲンロク(当時流行っていた外車情報誌)を穴が開きそうな位見たのも覚えています。車好きの私はいつもこれの繰り返し!後は妻と娘が喜んだり笑ったりしている姿だけあれば酒もタバコも何もいらない。家に居るか、自転車に乗っているか。人それぞれ楽しみ方はあるけれど、私はこのシンプルさがベストであったと今でも思います。そしてこの後、私のバロメーターはこの地元G1寛仁親王牌を機に、少しずつ上昇していくのです。

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