不撓不屈・ボスの自転車人生

不撓不屈・ボスの自転車人生

後閑 信一 後閑 信一 ごかん しんいち 元競輪選手  平成2年4月に65期生としてデビュー。落車による大ケガや数々の困難を不撓不屈の精神で克服。第46回競輪祭、第15回寛仁親王牌、第56回オールスターとG1で3V。面倒見いい親分肌と風貌から〝ボス″と称された。平成30年1月引退。通算成績は2158戦551勝、2着311回、3着255回。

第111回 気分良く帰宅も郵便物がポストに…  2020年10月5日

 地元の寛仁親王牌の前に愛車のAMG・S600を売却!そのお金で税金を払い、スッキリした気持ちで挑んだ大会は決勝6着!不振続きだった成績も、これを機に上昇気配になって来ました。その後の開催もG3を2連チャンで優勝!F1戦も優勝しっぱなしの状況が続きました。練習は裏切らない!練習の貯金はある日、突然花開くのです!なので諦めてはいけないのです。いや諦められないのです!
 当時、強い選手は「記念回り」と言われて現在の「S級S班」のようなG3記念競輪だけの斡旋がもらえました。それが超一流選手の証みたいなものでした!開催をする全国の施行者さんもその選手が走ると何億も売り上げが上がれば当然の事!私もそんな選手になりたい!と思って記念回りを目標に頑張りました!その頃、私はまだF1開催も多く斡旋されていました。点数も急上昇!次の高知で勝って念願の記念回りへ!
 そして高知のオールスター競輪を迎えました。調子も絶好調!特別競輪の決勝戦に寛仁親王牌に続いて乗る気満々!初日1次予選、私は自力戦。寛仁親王牌前に成績不振が続いたため(自転車が前に進まず)横に動くレースばかりしていたので、競走妨害の事故点が膨らみ前に踏むしかない状況でした。昔から私は期のはじめすぐに事故点が限界になってしまう程、暴れ回っていた時期があり、審判員の方からも完全に目を付けられていたのだと思います。時には納得の行かない判定もありました。レース後に張り出される結果の紙を見ると、私の名前の横だけ事故点が2列に書いてある事もあり、幾度と無く抗議に行った事もありました(笑)。そのため今回は「絶対に横へは動かない!」と決め、走った事を覚えています。
 話は戻りレースは1次予選。BSを絶好の4番手で通過、先行選手の番手に絡まれないように2コーナーから早めに捲りを仕掛けました!私としてはかなりのスマートなレースでした。そして最終4コーナーを先頭で回り最後のスパートだ!と前を見ると「うお~直線長っ!(汗)!」私は4着と敗れ、まさかの予選敗退、、、。先行でも残れるバンクだけにショックでした。「もう一度!走らせてくれ!」悔しさと期待外れな結果にこの場から消えてしまいたい気持ちでした。
 初日から負けてしまうと開催が非常に長く感じる事が本当に嫌でした。よく「残りを1着・1着・1着で締めくくればいい、、」と言いますが、現実に負け戦の中でも勝ち上がれば、確か準決勝で末着の選手と同じ位のグレードまで行けるので、こうなったらそこを目指すしかない!と気持ちを入れ替えた記憶があります!「事故点なんか関係ねぇ~」残りの3走は勝ちに徹しました!先行をして捲られたら番手を捌いて抜き返したり、番手の時は捲りをブロックしてそれでも行かれたら、その番手を捌く!そして気がついたら高知オールスター競輪は初日こそ4着に敗れましたが2日目以降は1着・1着・1着で締めくくる事が出来ました!この開催も大きな自信となりました。
 そして事故点はかなり付きましたけれど、賞金を見たらそんな事も吹っ飛びました。気分の良いまま帰宅、そして郵便物を見てみると大きな封筒がポストに入っていました。なんか嫌な予感、、先ほども書きましたが、事故点の内部制裁の通知です。いわゆる「お寺」。これは直近のでは無く1期前の物なのです。事故点による罰則は、運転免許の違反講習の様な仕組みになっていますので、ある一定期間違反をしなければ0点になりますが、私の様に常に違反を重ねている選手はいつになってもクリアにならないのです。(斡旋しない処置や斡旋規制などの失格で1ヶ月もしくは2ヶ月の斡旋停止処分を受ければになればクリアになりますが)そんな私は結構な頻度で「お寺=黄檗山」に行く事が多くありました。今でも競輪学校(現在の養成所)と同じくらい苦手な場所でした。黄檗山は京都にあり当時、群馬からだと高崎から4時間以上はかかります。京都から奈良線に乗り換えて行った覚えがあります。勿論スーツ!真夏は汗だくでエアコンなんてない!最悪、、。真冬はストーブ数個、、激寒!次回はこの私が何度も足を運んだ「黄檗山」の思い出を書きたいと思います。

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