不撓不屈・ボスの自転車人生

不撓不屈・ボスの自転車人生

後閑 信一 後閑 信一 ごかん しんいち 元競輪選手  平成2年4月に65期生としてデビュー。落車による大ケガや数々の困難を不撓不屈の精神で克服。第46回競輪祭、第15回寛仁親王牌、第56回オールスターとG1で3V。面倒見いい親分肌と風貌から〝ボス″と称された。平成30年1月引退。通算成績は2158戦551勝、2着311回、3着255回。

第119回 初日に親指骨折も走り続ける  2021年2月4日

 京王閣の共同通信社杯を神山雄一郎選手の頑張りのお陰様で優勝した私は、何とか恩返しが出来ないかと思い、いつでも神山選手の前で仕掛けられる準備をしたい!と自力での練習は欠かすことはありませんでした。しかし、神山選手の全盛期は、私なんかの機動力では戦力になりませんし、かえって邪魔になってしまいます。なので私は神山選手のいないときは自力中心のレースをして脚をつけ、神山選手と同乗したときは神山選手の後ろで暴れて援護に回っていました。神山選手の後ろで援護をしてワンツーを決めるとなると、追走するだけでも困難ですから脚力が無いと到底無理です。先行していても捲りの後ろを走っているようなスピード感ですし、捲りの鋭さも半端ではないんです!普通の選手の後ろだとスピードをある程度押さえたり調整しながら追走するのですが、神山選手の場合は私が自力で捲って行く感じで行かないと付いて行けないほど凄いんです。援護しようと不意に後ろなんか見ていると、加速の良さに離れてしまいますから、首を動かすのも高速回転でした。マジです。(笑)しかもレースは生ものですから、一回として同じレースが無い!どんな難しいレース、混戦をすり抜けて行かれても絶対食らいつく!神山=後閑の車券に応えたい!その思いで毎回吐く程に緊張しましたが頑張れました。
 そして伊東競輪場で迎えたG2東日本王座決定戦!初日はお決まり神山ー後閑の並びです。私は何としても神山さんを援護してワンツーを決めたい!という気持ちが強すぎて、今思うと完全に歯車がかみ合っていなかった様に思います。レースは神山選手が後方から早めに仕掛けて上がる展開になりました。そして中団に入ると、神山選手の後で誰だったかハッキリと覚えていませんが、私と取り合いになりました。私は外競りで勝ったのですが、その後に悲劇は起きました!私の前輪と神山選手の後輪がぶつかってしまったのです。そして私は落車。神山選手は外帯線を外していたために失格の判定を受けてしまいました。私は2コーナーで落車したはずでしたが、空中に舞った様で最後に止まった場所が敢闘門の金網付近だったと思います。しかし、気合いは半端ない私はアドレナリン全開でしたから、そのまま立ち上がり伊東競輪場の敢闘門から医務室までの結構な坂を心配して駆けつけてくれた選手達と一緒に歩いていたのも覚えています。当然擦過傷は凄かったですが、、。そして神山選手が失格したにも関わらず医務室にまず先に来てくれました。神山さんは何も悪くない。私のタイミングと競りとはいえハンドル操作ミスなのです。私は気持ちが空回り、自分が情けなくなり神山さんの顔を見るなり涙が出てしまい顔にタオルをかけてごまかしました。そして神山さんは初日で帰省しました。今でも本当に申し訳なく、自分が不甲斐ないレースだったと思います。
 私はその悔しさから2日目からも絶対に走ってやる!と思い医務室で擦過傷の手当をしていると、左手の親指が尋常でないほどに腫れてきたのです。医務の先生は「骨折してますね」というのです。確かにグローブも入らないほどの腫れ、、。誰もが欠場した方がいいですよ!といいました。確かに時間が経ちアドレナリンも引いた頃には、左親指に激痛も走っていました。しかし私は走りました。正直、腫れは治まらず激痛状態。痛み止めを飲み続け、それでもダメな時はお尻から痛み止めを入れ続け走りました。後はいかにレースの時にアドレナリンを出すか!そこに尽きる。当時、私が履いていたレーサーシューズはアディダスというシューズでしたので、靴紐で絞めるタイプ。どうしても1人では靴紐を絞める事が出来ませんでした。すると私は図々しくも出走控え室の隣の車番の選手に「ちょっとこっち引っ張って!」と頼んでいたのだから、今思うと本当に紐を引っ張ってくれた選手には感謝しかありません。そしてその大会では何と決勝戦まで勝ち進み、決勝戦では「もう親指が取れたってかまわね~」と自力で捲り上げて3着!表彰台に上がった思い出もあります。私はあの開催を乗り越えて来たから、落車しても負けない精神力が培われてきたし、そんな場面もたくさん乗り越えてきた。自分を奮い立たせて興奮させる能力が付けば競輪選手はやっていけます。私にはピッタリの職業でした。
 話は戻りますが、帰り道は車の運転がキツかったのも覚えています。帰ってから病院に行くと、完全に親指の骨が折れていて石膏で固められました。それでも次の日からハンドルの上を持ちバンク練習してましたから、元気がありましたね!私の2002年の思い出は神山さんへの思いが空回りの年でした。

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