不撓不屈・ボスの自転車人生

不撓不屈・ボスの自転車人生

後閑 信一 後閑 信一 ごかん しんいち 元競輪選手  平成2年4月に65期生としてデビュー。落車による大ケガや数々の困難を不撓不屈の精神で克服。第46回競輪祭、第15回寛仁親王牌、第56回オールスターとG1で3V。面倒見いい親分肌と風貌から〝ボス″と称された。平成30年1月引退。通算成績は2158戦551勝、2着311回、3着255回。

第127回 行き詰まった時は開き直る  2021年8月12日

 一年間で全てのG1戦の優勝戦に乗った年もあれば、全く乗れない年もあった。自分で言うのも何ですが、波のある選手だと思います。その理由としては度重なる落車もありましたが、その時の自分の中の想いは「脚力が無いから落車するのだ!」と思いひたすら練習に打ち込みました。2003年の成績は日本選手権の落車から始まりました。そして高松宮記念杯での8・3欠。地元前橋での寛仁親王牌「失格」。G2ふるさとダービーも共同通信社杯も優勝戦には乗れずに最終的には全日本選抜競輪を「失格」で締めくくるという私の選手生活の中でも「低迷期」「氷河期」と言っても過言ではない一年を過ごしました。収入も8000万円から3000万円に下がってしまい税金を納めることがやっとの生活が訪れました。
 そうなると精神的に「負のスパイラル」が待っていて、レースで突っ込めなくなって安全策なスケールの小さいレースしか出来なくなってくるのです。落車をしたくない。失格をしたくない。そうなってくるとレースが小さくなっていくのです。そんなレースばかりしていると、ファンの皆様も分かるようで次第に声がかからなくなってくるのです。当然、記者の方からも声がかからなくなり、いつもは記者さんの方から話しかけてくれていたのが、私の方から「すみません。明日自分は何レースですか?」とこちらから声をかけないと話してくれない程、惨めな自分を味わう事になるのです。レース前の顔見せで誰からも声がかからない、、、。検車場でも声がかからない、、、。私は透明人間なのか?一選手として価値がないのか?商品価値もないのか?ただの人数合わせなのか?思考回路が全てマイナスにしか働かない時期でしたので、それはそれは辛かった時期でした。
 そこに見た目と違って繊細で真面目すぎる性格の私は、自分で自分の事を追い詰め過ぎて時には価値のない自分に生きている価値なし!もはやこれまで!!と時には命を落とす事まで考えた時期もあったのがこの2003年でした。鬱になりかけた時期もありました。そんなときに私を救ってくれたのが妻と娘でした。枕元にそっとヒーリングのCDや手紙を置いてくれた心遣いに涙を流した夜もありました。大幅に賞金が減った翌年は税金が半端ない!走っても走っても税金で終わってしまうのです。住宅ローンやその他、支払いは今思い出すだけでもよく乗り越えてきたな~と思います(笑)。私は毎日ひたすら練習に打ち込みました。自転車に乗っているときは何故か不安な気持ちが消えるのです。なので私はひたすら自転車に乗りました。家族の笑顔を思い浮かべて必死に、、、。大事にしていたフェラーリも売却する事に決めました。「頑張ってまた買えばいい、、」そんな開き直った気持ちになった途端に清々しい気持ちになったことも覚えています。この時に「人生行き詰まった時は開き直った方が良い方向に転ずる!」これは私の楽しく生きるコツ!そんな開き直った瞬間に私の運命は上昇していくのです。
 2004年に入ると前半戦は失格、落車は無かったものの相変わらず優勝戦には乗れませんでしたが、9月の西武園オールスターでは久々の優勝戦に駒を進めました。優勝戦は尊敬する神山雄一郎選手の後ろに付かせてもらいました。やはり神山選手のお尻を見ながらのレースは気持ち的に安心感がありました。付いていけば良いところまで行ける安心感がありましたので、リラックスしてレースに望めました。結果、神山選手が優勝!私は4コーナー内側に突っ込み2着!突っ込む事に恐怖心があった自分に打ち勝つ事ができたのです。自分でもよく突っ込めたな~と思います。それは開き直り、練習に打ち込み、脚力とそれに伴い強い心も鍛えられた一回り大きくなれた自分ができたことと、レースでの神山選手に対する信頼感と安心感が力もうとする私の気持ちをほどいてくれたのです。力を抜くと体が一つになる!これもその時に学んだことです!レース中に後ろから見る神山選手の背中とお尻は大きく見えました!私は近い将来、神山選手の力になりたい!どこかでお返しをしたい!と思うようになっていったのです。オールスター競輪は賞金も高く、2着で2500万円弱はあったと思います。私の長い低迷期の1年と9ヶ月は終わりを迎えたのです。
 次回は栄光と挫折、光と影!長いトンネルを抜けた私を綴りたいと思います。

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