不撓不屈・ボスの自転車人生

不撓不屈・ボスの自転車人生

後閑 信一 後閑 信一 ごかん しんいち 元競輪選手  平成2年4月に65期生としてデビュー。落車による大ケガや数々の困難を不撓不屈の精神で克服。第46回競輪祭、第15回寛仁親王牌、第56回オールスターとG1で3V。面倒見いい親分肌と風貌から〝ボス″と称された。平成30年1月引退。通算成績は2158戦551勝、2着311回、3着255回。

第61回 ライバルが多かった同期生  2019年5月20日

 同期の中でも競走訓練で目立っていたのは、山本真矢選手と吉岡稔真選手、海田和裕選手や賀代茂雄選手、渡会宏和選手。他には生徒番号1番・案浦攻選手(技能と学科免除の年長組)。常に手を抜かないフルスロットルな先行で頭を縦に振りながら走る姿が印象的でした。適性組では東京プリンスホテルの料埋人からの転身で頭角を現していた東京都・古川圭選手。とにかく我が同期、65回生はライバルが多過ぎて、今考えるとプロデビューした時とまるで変わらないピリピリ感がありました。それが10ケ月間、毎日続く訳ですから、デビューした後も動じない強い気持ちで走れたのだと思っています。
 そんな中、97人も生徒数がいると全員が戦闘態勢でいるかというと、中にはのんびり屋さんや、サボリ屋さんがいるのです。朝練や自主練をする生徒は、玄関にあるホワイトボードに自分の番号の磁石のマークを付けて行くのですが、マークだけ貼り、部屋で寝ている生徒や、3キロサーキットや5キロサーキットでのロード訓練の時も影に隠れて、何周かゴマかして教官の前を通る時だけは苦しい顔をしてジェスチャーする生徒もいました(笑)。俺は基礎訓練の時は朝練をしていましたが、競走訓練が始まってからは朝練はしなくなりました。負けず嫌いな俺はレースに集中したかったからです。しかし競走訓練後の練習は誰もいなくなるまでやっていました。
 当時はまだ携帯電話も普及しておらず、主な連絡手段はロビーにある公衆電話と手紙でのやりとりでした。遠距離の両親や彼女に手紙を出したり届いたりの時代、中には雑誌の中の文通のコーナーに匿名で手紙を出して、届いた手紙に教官が「誰だ?この手紙は?」と皆んなの前で言われてしまい、手を挙げられずにいた生徒。厳しい日々の中にもクスッと笑える瞬間もあったりしました。とにかく今の時代から見ると不便かもしれませんが、手紙を書いたり、文通やわざわざ電話口に走ったりと、今となっては古き良き時代を味わえた約30年前の競輪学校時代でした。

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