不撓不屈・ボスの自転車人生

不撓不屈・ボスの自転車人生

後閑 信一 後閑 信一 ごかん しんいち 元競輪選手  平成2年4月に65期生としてデビュー。落車による大ケガや数々の困難を不撓不屈の精神で克服。第46回競輪祭、第15回寛仁親王牌、第56回オールスターとG1で3V。面倒見いい親分肌と風貌から〝ボス″と称された。平成30年1月引退。通算成績は2158戦551勝、2着311回、3着255回。

第83回 自らの怪我でスポーツ医学を学ぶ  2019年12月7日

 最悪な想定をして油断をせずに最高のパフォーマンスをする!これが私の生き方です。なので常に気持ちは崖っぷちの状態に置いていました。人間は1年中好調を保って走るのは容易ではありません!寧ろ不可能に近い、、。S級になると特に1班はG1特別競輪の出場権もかかってきます。例えば(ダービー2月~1月)(宮杯10月~3月)(オールスター12月~5月)(寛仁親王牌2月~7月)(競輪祭3月~8月)(全日本選抜6月~11月)など。最近では他にもG2ウィナーズカップやサマーナイトフェスティバルなどもあり、S級上位の選手達はひと息つく間もなく走り続けています。私も当時24歳と若輩者でしたから、一日中練習をして家に帰れば3歳の百合亜と生まれたばかりの次女の世話が待っています。夜泣きも酷くイライラした時もありました。
 そんな事を思った時に罰が当たりました!落車をして左鎖骨を粉砕骨折、肋骨を3本骨折してしまったのです。当時はまだ医学も進歩していませんでした。鎖骨はプレート術で良かったが、手術後は腕と肩と胸から上を石膏で固められていました。鎖骨部分には小さく切り取った小窓がつけられて、手術で縫った箇所を消毒していました。まずは2ケ月はそのまま!と言われました。私の周りもその当時はその手法でしたので、諦めるしかなく、、。絶望感の中、毎日病院の天井を見つめていました。石膏ですから中が痒くなる時もあります。そんな時は後輩の須藤直道選手に孫の手を買ってきてもらったりしていました。汗疹は出るし今から20数年前は本当に不便でした。しかし、私の体は治癒力と筋力は人より優れているとその頃から実感していたので、5日もしたらもう普通の人間の様に痛みもなく、体がウズウズして来てしまい、再度、後輩の須藤直道選手を呼び出し「ノコギリ買って来てくれ!」と言い、石膏のウラ側を切って腕を抜き、トレーニングをしてシャワーも浴びたりした記憶があります。そして先生が回診に来ると、裏側から石膏に腕を突っ込んで何も無かったかの様にベッドに寝ていたのを思い出します(笑)。
 そして約10日後には散歩に行くと言って病院を抜け出し、自転車に跨り上ハンドルを持ちバンクを走ると、周りの選手達から「お前の体はどうなっているんだ?」と言われました。今となっては当たり前の様に言われていますが【乗りながらほぐす】、【動かしながら治す】は若い頃に自分で得ていた感覚です。体はみるみる治り、その時の怪我は1場所を欠場する程度でレースに出た記憶があります。鎖骨はプレートで繋がっているので体は治っていると思い痛みは感じない。しかし、繋がっていると思うから骨液を出さなくなり完治が遅れる。でも痛みが無いから走れる!
 問題は肋骨骨折なのです!肋骨骨折は手術のしようがないのです!ただ治るのを待つだけ!動く度に痛みが走る!厄介な怪我なんです。どの先輩に聞いても得策が無く、それなら自分で考えよう!とお腹をへこませたり、首の位置や頭の位置、呼吸法などを考えたり、痛点に触れないように肋骨に負担をかけないように、あらゆる事に取り組みました。すると短期間で肋骨の仮骨もしっかりとレントゲンに映り、先生も首を傾げる様になってきたのはこの頃からです。
 私は自らの怪我でスポーツ医学を実践から学び得て怪我を早く克服する事で「怪我する前よりつよくなれ!」を身に付けてこれから来る栄光を掴むことになるのです!当時24歳。今で言うとFl。当時で言うと準記念。今で言うとG3。当時で言うと記念。これは優勝出来る様になったので、次はグレードを上げてG2制覇へ想いは高まります。急ぐ理由はありました。私の同期生の吉岡稔真選手と海田和裕選手は21歳と22歳で日本選手権ダービーを優勝しているのですから、、。自分が歯がゆい、、出遅れている自分に腹立たしい、、そんな毎日を送っていました。

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