不撓不屈・ボスの自転車人生

不撓不屈・ボスの自転車人生

後閑 信一 後閑 信一 ごかん しんいち 元競輪選手  平成2年4月に65期生としてデビュー。落車による大ケガや数々の困難を不撓不屈の精神で克服。第46回競輪祭、第15回寛仁親王牌、第56回オールスターとG1で3V。面倒見いい親分肌と風貌から〝ボス″と称された。平成30年1月引退。通算成績は2158戦551勝、2着311回、3着255回。

第84回 偶然にマーク屋の技術を学ぶ  2019年12月27日

 普通で見るといい感じで活躍している様に見えるのでしょうが、とにかく私は吉岡選手と海田選手がハイレベルすぎて何とか追いついて名前を挙げたい!そんな思いで迎えた25歳!G2名古屋共同通信社杯。今でも忘れません1月の極寒の名古屋競輪場。当時はまだバンクの中央には池がありました。私は何とか6着、3着、3着で勝ち上がり、関東でただ1人決勝戦に進出する事が出来ました。65期の同期は私と吉岡稔真選手と大阪府の大矢勇一選手の3人が乗り合わせました。彼らの位置取りが気になりましたが、私は当時から自在屋でしたので、位置は初めは特に気にしていませんでした。吉岡選手と小嶋選手がもがき合えばまくればいいし、もつれれば内に切り込んだり、外から追い上げたり、自由自在に一発狙って行こう!と思っていました。しかし、その時の私は「優勝」したいと思う気持ちよりも、【吉岡に勝ちたい!】という気持ちのほうが強く、なるべく吉岡選手の近くにいたい思いから、吉岡稔真選手―大竹慎吾選手の3番手にいた方がいいのではないか?と気になっていたのです。当時、名解説で知られていた鈴木保巳さんからは「吉岡の3番手は優勝には近そうで一番遠い場所だ!」と言われましたが、私の気持ちは一点集中であるイメージと秘策が閃いていました!対する中部ラインは小嶋敬二選手に愛知県の絶好調男!富永益生選手。そしてその後ろには岐阜県、山口幸二選手。中部ラインも強力です!他の単騎、児玉広志選手と大矢勇一選手は吉岡選手の3番手にマークしてしまうと、もし地元中部ラインが2段駆けになれば吉岡選手が7番手!どうにもならないと思い、吉岡3番手を嫌いました。正に一発優勝だけを狙っていた私にはサラ脚で、しかも吉岡選手の近くに常に居られる最高なポジションだったのです!しかも当時の大竹慎吾選手はめちゃめちゃマッチョで体がデカかったので、その後ろに居れば極寒の名古屋バンクの冷たい風もあまり受けなくていい、条件は整いました。
 レースは始まり、残り2周で前にいた小嶋敬二選手が後ろから抑えに行く吉岡選手を突っ走った事により、レースが乱れました。なっ何と!吉岡選手が小嶋選手の番手に入っているではあーりませんか!私はマークを奪われて必死にまくってくる富永選手を2コーナーで一度振り向き確認しました。あのスピードは吉岡選手でなければ行かれてしまったスピードでした。しかし、私は吉岡選手はきっとすぐ出て行く!と思っていたので、そのまま赤の3番車、富永選手を受け流し余計な事はしませんでした。ブロツクは当時の名マーカー大竹選手ですから、素通りさせる訳が無い!最終3コーナーで必ず内側のコースが空く!そこだけに私の【ゾーン】があり、私はそこに入り込み初めてG2のタイトルを勝ち取る事が出来たのです。私は名古屋の最終4コーナーからの直線を「雲の上の存在になってしまった」同期・吉岡稔真と肩を並べてもがき合えたことが何より嬉しく、あの極寒で雨の重い走路で内側から踏み上げて吉岡選手に勝ったことが凄く自信になったのです!
 これは今まで一言も語った事はありませんでしたが、私が後にマーク屋として生き抜いて行くための技術も我が同期・吉岡稔真選手はプレゼントしてくれていたのです!それはゴール前で偶然に起きた事がきっかけなのですが、私は吉岡選手より先にゴールに向かってハンドルを投げました!そのときに吉岡選手はまだ前に踏んでいる状態です!私の肩が吉岡選手の前にあり、吉岡選手の肩は私の後ろに位置していたために、私を押す形になっていたのです!その状態【肩一つ前!】にあれば、吉岡選手がその肩を抜かない限り、どこまで行っても私の事は押してしまっているだけの状態になっているということを吉岡選手から学びました。のちにマーク屋になった際にも役立つことになったのです!

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