不撓不屈・ボスの自転車人生

不撓不屈・ボスの自転車人生

後閑 信一 後閑 信一 ごかん しんいち 元競輪選手  平成2年4月に65期生としてデビュー。落車による大ケガや数々の困難を不撓不屈の精神で克服。第46回競輪祭、第15回寛仁親王牌、第56回オールスターとG1で3V。面倒見いい親分肌と風貌から〝ボス″と称された。平成30年1月引退。通算成績は2158戦551勝、2着311回、3着255回。

第87回 人生は山あり谷あり!  2020年1月30日

 これぞバブル時代!と思わせる出で立ちのサマーセーターに金のネックレス&ブレスレット、クロコダイルのセカンドバッグに、花の応援団を思わせる45度ほど角度の付いたサングラスをした青年!私は嫌いではないタイプでした。その青年からどうしてそんなに私のセルシオが欲しいのか?と聞くと、やはり頻繁に私の家の前を通る度に、私のセルシオにホイールやスポイラーや車高など、カスタムが進むにつれて毎回胸が躍り「仕事頑張ろう!」と思ったそうです。ホイールのメーカーやタイヤサイズも見に来て夢を貰っていました。しかしある日、交差点でもらい事故に巻き込まれて大怪我をして、車も大破して夢も希望も無くなってしまいました。勝手なお願いだと思いますが、後閑さんのセルシオを譲ってもらえないでしょうか?と自宅に訪ねて来たのです。私の家に相談に来るまでにかなり悩み、勇気も振り絞ったと言っていました。私は「この青年は今の私よりこのセルシオを必要としている」。こんなに活力となるのならと思いました。タイミングや縁というものは凄いもので私は正直、セルシオのカスタムはひと段落ついたので、次は何のクルマにしようかと探し始めていました。私も競輪のモチベーションを維持して更に成績を上げるために大好きな車は必需品!バブル青年の突然の訪問によって、セルシオはかなりの高値で買い取ってもらえました!
 そして人生は山あり谷あり!追走義務違反からの共同通信社杯優勝で、谷から山へと駆け登り迎えた日本選手権競輪(千葉ダービー)でも好調を維持していて、3.1.3着と勝ち進む事が出来ました。話し合った結果、決勝戦では神山雄一郎選手の後ろにつかせて貰う事になり、しっかり付いて行けばチャンスある!と前の日の夜は胸がザワザワしていました。確か優勝賞金は5千万円か6千万円で、2着でも2千万円越えでした。当時は特別競輪G1に参加するだけで(参加名誉賞65万円)が支給されていたので、初日から決勝戦まで勝ち上がると、それだけでも2百万円弱は賞金があったと思います。ですから前の晩はウィズマンやゲンロク、特選外車情報など穴が空くほどクルマの雑誌を見ていました。そして部屋では後輩の稲村成浩選手と、ずっとクルマの話をしていたのを覚えています。購入する車は当時、流行ったシボレー・アストロのアメリカンロードウルトラというワンボックスタイプで、車内が本革でソファーのようにふっくらしていて、後席には当時珍しかったTVモニター&ビデオデッキ、そして照明はシャンデリアと豪華装備のクルマです。それで家族で息抜きに旅行がしたいとウキウキしながら決勝戦当日を迎えました。
 私は28年現役をやりましたが、やはり気持ちが切り替わるのは、特別選手紹介に行きたくさんのファンの皆様に大声援を頂いてからです!因みに決勝戦のメンバーは1番車・小橋正義選手、2番車・神山雄一郎選手、3番車・松本整選手、4番車・西川親幸選手、5番車・山田裕仁選手、・6番車・伊藤浩選手、7番車・吉岡稔真選手、8番車・後閑信一、・9番車・三宅伸選手とそうそうたるメンバーです。出走直前控え室に入ると、隣が同期の吉岡稔真選手ではあーりませんか、、。前場所G2のビッグレース共同通信社杯で私に負けたのにも関わらず、相変わらず無愛想で自信満々な様子。私の事など全く気にしていない様子でした。「ヨーシ、神山さんが吉岡くんより前にいたら金あみまでブロツクしちゃおっかなあ~」などと思いながら緊張を自分なりに解していました。
 レースは始まりました。打鐘で神山―後閑で押さえると、その上を三宅―小橋が更に切り、最終HSで吉岡―西川が叩いて最終先行!あの吉岡稔真の一周駈けでは、さすがの山田裕仁選手の鋭いまくりも合わせてしまい、堂々の逃げ切りでの優勝でした。前で走っていた神山選手はまくり不発に終わり、最終4コーナー最後方に位置していた私はコースがありませんでしたが、無理やり中を突っ込んだら、目の前に当時は黄色の6番車・伊藤浩選手が現れ、お互いに接触し、落車となりました。伊藤浩選手は怪我も軽く、すぐに起き上がり歩いて自転車を携行してゴールを目指しました。私は落車した瞬間に「右鎖骨が完全に折れている」と実感する程、グチャグチャに粉砕して折れているのが解りました。レースを棄権すればダービーの優勝戦をゴール出来ない悔しさが残り、車券を買ってくれたファンの皆様に申し訳が立たない。痛いけど、どんな状況でも這ってでもせめてゴールはしなければ、、。ただその想いだけで長い500バンクの直線を歩いていました。拍手を浴びて一礼をして私の25歳のダービーが終わりました。
 救急車で病院に運ばれてレントゲンやCTを撮り、病院の先生はこの様子だとてっきり入院かと思いきや、私が帰る!と言い出したのでビックリしていたようです。同県の高橋光宏選手、水島洋一選手、矢端誠二選手、稲村成浩選手たちに周りを囲まれながら電車や駅ホームでは守ってもらい、自宅まで送っていただきました。本当に感謝しています。今でも覚えていて懐かしいのは、稲村成浩選手が私の妻に「後閑さん怪我しても頑張りましたからクルマのお許し出してあげて下さい!」と真剣に言ってくれた事です。絶頂の共同通信杯優勝から一転、【空き巣被害】と【骨折】。奈落の底に落ちました。

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