不撓不屈・ボスの自転車人生

不撓不屈・ボスの自転車人生

後閑 信一 後閑 信一 ごかん しんいち 元競輪選手  平成2年4月に65期生としてデビュー。落車による大ケガや数々の困難を不撓不屈の精神で克服。第46回競輪祭、第15回寛仁親王牌、第56回オールスターとG1で3V。面倒見いい親分肌と風貌から〝ボス″と称された。平成30年1月引退。通算成績は2158戦551勝、2着311回、3着255回。

第96回 結果は失格も手ごたえつかむ  2020年4月13日

 ケイリングランプリ1996を3着で1年を締めくくり、25歳で9千5百万円越えの収入!当時は必死で当たり前だと思っていたけれど、今考えると、高いレベルで走れていた事に感謝しかありません。競輪選手の仕事は毎月2~3本均等に斡旋が来ます。ですから一年中、気を抜く事なく安定して走らなければなりません。ましてS級選手は常に特別競輪G1の選考期間があり、最低競走本数や、競走得点もあるので怪我も出来ない状況にあります。そういった事もあり、常にギリギリの精神状態で日々を送っていたように思います。
 そのストレスはかなりのものがありました。やはり選手も人間ですから各々ストレスの解消法があったと思いますが、私はクルマにその発散を置いていました。私は1970年生まれ、この時代はスーパーカーブームでした。こずかいでスーパーカー消しゴムを買い集め友達と見せ合うのです。他にはまだペットボトルもない時代でしたからジュースは瓶!フタの裏をめくるとスーパーカーの絵がプリントされているのです。それも何百個と集め、だぶると友達と交換したりして小学校時代を過ごしたものです。ですからスーパーカーは正に「夢」その夢を現実に出来る所まで来ているわけですから、その実現に向け毎日が楽しくて仕方がありませんでした。
 次はフェラーリを手に入れよう!と意気込んで翌年の1997年は1月に花月園競輪場で第9回共同通信社杯に乗り込みました。連日、超満員のスタンド!思い出すだけでいい意味でゾクッとします。当時は3日制でしたから集中力はベストな状態でした。初日は1着。2日目は75回生スーパールーキー埼玉県・太田真一選手に同県の伊藤公人選手がマーク、私はその3番手を回りました。太田真一選手が先行し、吉岡稔真選手がHSから捲り上げて来ました。私は3番手で脚に余裕があったので、吉岡稔真選手の後ろの小橋正義選手を捌きに行きました。最終BSではかなりのスピードだったと思います。小橋選手と私は押し合いになりました。私は関東ラインの3番手でしたから、何とか関東ラインで上位に入着しようと必死に捌いたつもりです。すると小橋選手を落車させてしまったのです。私のゴール入線は確か4着か5着だったと思いますが、競走妨害で失格となりました。
年明け最初のビッグレースでまさかの失格スタート!しかし、脚自体は手応えを感じていました。結果は失格でしたが、あのスピード域でも小橋正義選手に当たり負けしなかった事も自信となりました。花月園競輪場は閑静な住宅街にあり、建物も新しく宿舎からはみなとみらいの景色が遠目に見え、駐車場も地下駐車場と選手はとても過ごしやすかったのではないかと思います。フェラーリはお預けか~。ヨシ!翌月のふるさとダービー防府で取り返そう!と気持ちを切り替えて花月園競輪場をあとにしたのを覚えています。

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