疾風怒濤の競輪回顧録

疾風怒濤の競輪回顧録

山田 裕仁 山田 裕仁 やまだ ゆうじ 競輪評論家  昭和63年5月に61期生としてデビュー。平成9年KEIRINグランプリを皮切りに、GP、GⅠを優勝すること9回と、同期の神山雄一郎、吉岡稔真とともに一時代を築いた。14年3月のダービーで現役引退を表明。同年5月の引退後はスポーツニッポン紙で競輪評論家として活動している。

第2回 出会い①  2015年12月30日

 1968年6月18日
 大垣市にて生を受ける。
 男児は「裕仁」と名付けられた。って、恐れ多くも当時の昭和天皇と同じ漢字やないかぁ~い。うちの親はアホか(苦笑)て言うより、許可した役所もスゴイなぁ。
 小学生時代は自分で言うのもなんですが、悪ガキだったなぁ。何度親が学校呼び出しされたか。今更ながら、オフクロごめんなさい。だけど、今でいうイジメだけはしなかったという変な自慢。
 けっして勉強が出来たとは言いませんが、体育だけは◎。評価値は常に最高点でした。そう、両親に感謝で運動神経だけは良かったみたいです。
 そんな少年は、野球少年団に入り野球を頑張ることにした。四番センターを任されることになり、そのまま野球に打ち込んでいたらプロを目指す人生になっていたかもしれないのにー。
 ある日、親父の趣味の競輪に連れていかれて競輪という職業に出会うことになりました。ん、自転車競走?こんな簡単なことでいいのか?運動には絶対の自信があった私が、安易な考えを持ってしまったのは言うまでもない。その後の人生で、悔し涙、嬉し涙を流すことなど想像もしないで・・・
 中学時代は、学校の風紀もあまり良いとは言える時代じゃなく、なんちゃって感の強かった野球部じゃなく、大垣の中学では名門だった陸上部を選択することになった。といっても陸上部の練習もそんなにハードということでもなかったが、そりゃあ先輩後輩はキビシかったなぁ(苦笑) だけど今思えば、陸上部を選択してたことがその後の人生において大きくプラスに働いたと思います。
 中学三年生の時に誰もが経験する進路相談。親は「大学に行って欲しい」私は「競輪選手になる」で、進路先を揉めていた。中学時代はなぜだかそんなに勉強成績も悪くなかった私は、親のために普通科にだけは行ってやろうかとおもってた。そんな安易な考えに教師が一言「大学に行くつもりがないなら普通科に行ったら浮いた存在になりますよ」この一言で決まり!親には悪いが普通科もヤメ~。で、担任には、当時自転車部のあった工業高校を勧められたが、私は、競輪には適性試験があるのを知っていたため、基礎体力を強化し体を鍛える方を優先して「陸上を続けたい」と言った。そして親をなんとか説得して、陸上部の顧問の勧めで、当時は陸上では毎年全国優勝者を出している名門校だった大垣商業高校を受験することにした。
 なんとか受験に成功して、というより落ちるなんて考えてもいなかったが(笑)大垣商業高校に通うことになりました。
そこでは、オリンピックにも出場したことのある、今では恩師と言わざるをえない先生に出会えることになる。。。

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