不撓不屈・ボスの自転車人生

不撓不屈・ボスの自転車人生

後閑 信一 後閑 信一 ごかん しんいち 元競輪選手  平成2年4月に65期生としてデビュー。落車による大ケガや数々の困難を不撓不屈の精神で克服。第46回競輪祭、第15回寛仁親王牌、第56回オールスターとG1で3V。面倒見いい親分肌と風貌から〝ボス″と称された。平成30年1月引退。通算成績は2158戦551勝、2着311回、3着255回。

第77回 22歳も後半戦に突入  2019年10月3日

 立川ダービー・高松宮記念杯・ふるさとダービー函館と着実に賞金を稼ぎ、22歳の7月の時点では約4千万円!今年はどんなに稼げるのだろうと、同期の活躍に刺激されながら毎日の練習とレースが楽しくて仕方がありませんでした!走れば毎回何百万円も稼げました。競輪界は平成3年に年間の総売上げが1兆7500億円と2兆円を超える勢いでした。S級はもちろん、A級上位でも稼ぐ選手は約1300万円~1500万円位稼いだ様に記憶しています。競輪界もバブルでした!私は前にも書きましたが、21歳で2億円の家と新型メルセデスベンツS600にロリンザーのアルミホイールを履き、ロリンザーのサスキットを組んで車高を落とし、マフラーやエアロもフルロリンザー、窓は当時まだ合法でしたので全面にダークスモークを貼りフルスモーク状態!と、ただ者ではないクルマに仕上げました!街を走っていると後を付けてまで見に来たり、駐車場や夜の街を走ると私のギラッギラのメルセデスに周りの目線を感じてかなりのステイタスがありました。金無垢のローレックスにはカスタムで文字盤やベルトにもダイヤを散りばめてカスタムし、ネックレスも指輪も当時の定番!セカンドバックも財布も全て欲しいものは手に入れました!それが私の趣味とモチベーション!家族には何一つ不自由のない生活を送って貰いたい。そんな想いで22歳の後半戦を迎えました。
 8月の特別競輪はG1全日本選抜競輪です。私は更に調子を上げていました。「もしかしたら優勝戦狙えるかも!?」と思えるくらい練習も準記念Flレースも良かったのです。そんなウキウキ感から車好きな私は,何かいいクルマはないかな?と当時はまだ携帯の普及がなく、インターネットもない中で情報を見つけるには、懐かしの外車雑誌、ウィズマンやゲンロク、特選外車情報などを毎日、穴が空くまで見ていました。すると「ホンダNSX」に目が行ったのです!カラーはイエローで走行距離は2千キロ!価格は1千万円。気付いた時にはもう私はそのクルマ屋さんに即電話!その場で家を駆け出していました。向かう車の中で、「あのイエローならホイールのカラーは黒か金が似合うかなあ~」ホイールメーカーはOZレーシングでしょ!と、完全に浮かれていました。22歳で金は頑張ればいくらでも稼げる!と完全に過信していました。私の(しくじり先生)はまず、ここにありました。
 NSXに内金を入れて全日本選抜競輪へ向かいました。その時は同県の先輩、高橋光宏選手、矢端誠二選手と寝台列車で青森競輪場へ向かいました。その当時は多かったようですが、私の寝台列車でのレース参加はそれが最初で最後となりました。NSXを予約して全日本選抜競輪の開催が終わった翌日に納車の状態。前検日からウキウキワクワクでも周りには平常心を見せていました。
 そして初日1次予選は先行して2着で好スタートを切り順調に2次予選進出!2次予選は地元青森・坂本勉選手と私の2分戦となりました。私の後ろには名マーカー埼玉県・伊藤公人選手。千葉県・佐藤晃三選手と神奈川県・郡司盛夫選手は別線を選びました。テレビで見るような大選手と実際に走れる嬉しさと、開催が終わればホンダNSXが納車になる嬉しさとで頭の中はドーパミンが溢れ出ていました!そして2次予選がスタートしました。

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